ドイツ人医師のエンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kämpfer 1651年 – 1716年)は「出島の三学者」の1人で、カール・ツンベルクとフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトに並びます。この3人の中でケンペルが一番早くに日本に来ました。
ケンペルは1690年(元禄3年)から2年間、オランダ商館付の医師として長崎出島に滞在しました。当時の日本は江戸時代で、「生類憐れみの令」で有名な徳川綱吉が将軍でした。ケンペルは滞在中に長崎と江戸を2回往復し、綱吉には少なくとも2回謁見したそうです。
彼は滞在中、日本社会や文化をよく観察し、移動する際にはつぶさにメモを取っていたそうです。そして日本と日本人を非常に高く評価していました。
魔女狩りが横行していた当時のヨーロッパから来た彼は、「生類憐れみの令」が発令されている日本において、生き物を大切にする日本人達の姿に感動を覚えたのでしょう。牧師であった彼の義兄は魔女裁判で処刑されています。そんな経験も関係しているのかもしれません。
彼の没後、遺品として残った原稿は英訳され、「日本誌」(The History of Japanese)というタイトルで1727年にイングランドで刊行されました。
これはヨーロッパにおいて日本を体系的に記述した最初の本でした。そして欧米人に日本という国の観念を形成しました。例えばペリーが日本に来航した際には「日本誌」を携帯していました。また哲学者のカントやマルクスにも読まれたそうです。そして日本国内においても広く読まれ、日本人の思想に様々な影響を及ぼしたといわれています。
この民は習俗、道徳、技芸、立居振る舞いの点で世界のどの国民にも立ち勝り
(江藤文夫「医療と日本人」出版医歯薬出版株式会社 2019 p54)
これはケンペルが日本人について述べた言葉です。いかに日本を高く評価しているかが分かります。また滞在中に謁見した綱吉についても、その好奇心旺盛な姿勢に好感を抱いたそうです。
その綱吉の「生類憐れみの令」については賛否両論があります。元来は “命を大切にしたい” という綱吉の仁を尊ぶ思いから発令されました。戦国時代の殺伐とした世界から脱却したかった。しかしその真意は伝わらず、負の側面が行き過ぎたのか、「あなたの家で犬(その他生き物)をいじめていると訴えるぞ」というような脅迫も蔓延り、当時の江戸の住人は喪に服したような暗さだったともいわれているようです。
綱吉は危篤になった時にも、例え弊害はあるにせよ生類憐れみの令を100年後にも保つようにして欲しいと言い残しました。しかし危篤の知らせを聞いて駆けつけた徳川家宣は、綱吉の側近であった柳沢吉保を呼びすでに息を引き取った綱吉の仏前でこの禁令を中止するよう命じました。なぜか。それは禁令に引っかかっている者がその時にも何十万人といて、獄中死も数多く出ていたからです。これから国を治めるにあたり、どうしても廃止せざるを得なかったのでしょう。
「犬公方(いぬくぼう)」とも呼ばれた綱吉と、その綱吉に2回程謁見し好感を得たドイツ人医師のケンペル。
2人の異なる背景を背負った異国の人物が交差する、時代のひと時を垣間見みました。
コメント